人間は生きる為に食べる
お腹が空いて食べるのは、本能かな
美味しい物を食べたいと思うのは、欲かな
どちらにしろ
食事するときには
心が嬉しいと感じたい
おばさんになり、あと何年生きるのかと考えた時、20-25年程ではないかと思いました。まぁ、それ以上は生きてたくないなぁとも思うのですが…。
そう考えると、私の一生の中で残っている時間を長いと感じるか感じないか。私は長く無いなぁと感じました。良いとか悪いではなく、人間の一生は大きく差が無いと思っています。そしたら、色々な事を逆算して考えるようになりました。
三度の食事は美味しく食べたい
心が嬉しいと感じることは五感が嬉しいと感じる事だと思います。
食事は、五感の1つである味覚が嬉しいと感じる事。そして、身近にある心が嬉しいと思う事。
おばさんになり、人生を逆算するようになった時、1日の食事回数×元気でいられる日数が、私が食べられる食事回数だと思いました。その回数は、そんなに多くは無いかもしれない。
人生、いつ病気になるかわからないし、事故だって怪我だって無いとは言えない。もし…とか、…かもとか、過剰に不安になる必要は無いですが、今、目の前の心が嬉しいと思える事は、逃さずに嬉しいと感じたい。
食事は美味しく頂き、心が嬉しいと感じたい
私にとって美味しい食事は
高級料理は美味しいのですが、毎日食べられないです。たまに食べるから美味しいのかもしれません。
しかし、何だかいろいろ緊張するし、一緒に食べる周りの人にも少なからず気を遣うし…。
私もこの年まで生きれば高級料理を食べた事もありますが、ふと気が付いた時、美味しかったけれど、その時に一緒にいた人の記憶が大きかったり、緊張して美味しい意外に味は覚えていなかったり…。なんだか、もったいないなぁと。
とっておきの高級料理も良いけれど、日々の生活では心が嬉しいと感じる物を食べたいと思いました。
私は他人と関わることで心が辛いと感じる時がある事に気付きました。食事も同じで、誰かと一緒に食べることが好きではないです。1人で食事するのは寂しいとよく言われますが、私は寂しいと思わないです。極端な例えですが、機嫌が悪い人と一緒に食べるのなら一人で食べたほうが美味しいと思うという感覚です。他人に気を使いながら食事をしても美味しいと感じる余裕が無いなぁ。それなら、1人が良いかと。
外食はあまりしませんが、全くしないわけではないです。しかし、お店に気を使ったり、周りの人に気を使ったりします。そして、何気に他人の気があると落ち着いて食べられるとは限らない。加えて、外食では量が多い事や、油が強かったりする事が多く、胃に負担がかかるのも苦痛だったりします。外食は苦手だと気付き、そんな自分を面倒だなぁとも思いましたが、今では仕方ないかと諦めています。
先日、出かけた先で、持参したお茶漬けを誰もいない静かな公園でゆっくり食べた時、美味しいなぁとしみじみ思い、自分は贅沢だなぁと感じました。心が嬉しいと感じました。
私にとって心が落ち着いて食事が出来る場所は、こういう静かなところなのかもしれないです。山で食べるご飯も美味しいですし。
貧乏性だと思えばそうなのですが、私自身は、緊張して食事をするよりも、落ち着いて、美味しいなぁとしみじみ感じながら食べるほうが、心が嬉しく思います。そして、心が嬉しいと沢山思うほうが良いではないかと。
私が美味しいと思う食事をして、心が嬉しいとたくさん感じるほうが良い。
食べられなくなった時には…
加齢とともに身体機能は衰えます。嚥下機能(飲み込む能力)が衰えれば、食事を食べられなくなります。
しかし、食事を美味しいと感じることで心が嬉しいと感じます。生きる為に食事をとるのですが、美味しい感じることが伴ってこその食事だと思っています。
食べられなくなった時は
潔く、食べられない事を受け入れる
嚥下機能が低下する程に身体老いる状態では、自分で自分の事も出来なくなっているような状態になっている。他人の世話が無いと生きていけなくなっている。
それだけでも心が辛い。しかし、心が辛くても人間は自分の寿命を決められないので、生き続けなければならない。こんなつらい事は無い。そんな状態でも美味しく食事を取れれば、まだ心が嬉しいと感じることが出来るかもしれない。しかし、嚥下機能は低下していく。
食事する楽しみがないまま生きるほうが辛い。
食べられなくなることは、生きられなくなることですが、美味しいと思わない食事をとってまで生きたいとは思わない。
美味しいと感じて食事をとれることが、どんなに心が嬉しい事なのか。おばさんでも、その事に気づけたことは良かった事じゃないか。
美味しいと思って、心が嬉しいと感じられることに感謝して食事できることは、とても贅沢だと思う。