私は山が大好きなので(*^-^*)、新年早々ですが、山に行きたいなぁと思いました。
新年と言えば、富士山🗻。富士山が良く見える山の一つである、山梨県にある三つ峠山に行ってきましたヽ(^。^)ノ。
新しい年、富士山🗻と絶景を観れたことには、感謝の思いしかありません(*^-^*)。
山頂で、おばさん一人が思いに浸っていました。そうすると、後ろから声が聞こえました。無線を使って誰かと話をされている様で、「富士山🗻の目の前にある山の山頂にいます。」…。ん?。
富士山の目の前に私はいるのかなぁ???。私は富士山🗻の目の前に来ようと思ってここに来たのかなぁ、ちょっと違う気がする(;^_^A。
主語が富士山なのか、自分なのかが解りづらいと思った。すんなり伝えるならば、「私は、目の前に富士山🗻が見える山の頂上にいます。」だと思う。観ているのは誰かという主語の問題かと(;^_^A。
この言葉では、富士山から良く見える場所にいるけれど、富士山のどの方向にいるのかが解らない。もし、自分が富士山の山頂に立ったとしたら、富士山の頂上から見える360度が目の前の風景であろうと思った。
でも、ちょっと考える。富士山を擬人化した表現をつかったのではないかと。富士山に目👀があり、その前にある山の頂上にいるならば、その表現は間違ってはいないのかもしれない。しかし、富士山に目👀はあるのかと思えば無いのですが、人々が富士山の👀と誰もが思う場所があれば、富士山を擬人化した表現は使えると思う。しかし、富士山に目👀と思う場所は無い。
擬人化する表現はどうなのか。テレビの目の前にいる、使う表現と思う。テレビには前と後ろが存在する。それは誰もが前と後ろを認識できるし、そう聞くと、テレビの画面ではない後ろ側にいると思う人はいないと思う。
目ではなくても富士山の顔(*^-^*)というか、表と思われる場所があれば、言葉を聞いた人は、それを言った人がいる場所を富士山からの表方向で想像できるのですが、富士山には表も無ければ👀も無い。
そこまで思った時に気が付きました。富士山の目の前という表現が正しいのか間違っているのかは解りませんが、富士山には表や裏といういう定義が無い。
富士山は独立峰であり、360度、何処から見ても日本人の愛する富士山だと思う。そう考えると「富士山の目の前」という表現は、独立峰である富士山の360度の何処にいるのかが解らない。
富士山の目👀の前…は、場所が特定されたくない時に使うのは有効かと思う。富士山の👀は存在しないし、富士山には表裏も無い。山梨県から見る富士山も、静岡県から見る富士山も美しいと思う。そう考えれば、山梨県の山の山頂で、富士山の目の前と言った人は、山梨県側を表と思う人だったのかもしれない。
日本語は難しいと思った(笑)。
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